対談 クリストファー・クック&天野太郎(抜粋)

天野:こ こにある グラファイトの新作の多くは、紙ではなくアルミニウムを支持体に描いてい ますね。

クック:同時に紙でも色々と制作してきていますが、現在のところは、アルミニウム板主体です。

天:ラグペーパーとアルミニウム板では、どういった違いが見られますか。

ク:アルミ板には表面処理を施すので、紙とかなり似てきますが、紙は自在に持ち上げることが可能です。すると、重力がひとつのツールとして重要な役割を果たします。アルミニウムは、頑丈な分だけ、その作用も制限されてしまいます。

天:重力の作用とは?

ク:グラファイト液の分離、沈殿といった作用ですが、それがどう現われるかは予測できません。その、制作初期段階におけるアーティストのコントロールが制限された、予測不可能な点が、現在の私の作品の基盤になっています。

天:紙は、持ち上げたときに湾曲しますよね。

ク:はい、その立体性から、体系的な流れのパターンがアルミニウム上に異なる画像を生み出します。それが必ずしもうまく作用するとは限りませんが。

天:あなたの本( a thoroughbred golden calf )にある作品も、この紙を使用した作品と同じような手法で制作されたのですか。随分、違った印象を受けますが。

ク:その本は、遺伝に関するリサーチに対する文が添えてあります。作品では、重力の優勢を表現しようとしました。これは、有機体の成長が環境に左右されることに類似しているように思いました。私は、まず、しずく状のペイント パターンから始め、 紙を操ることだけで、 あとは 重力にまかせたわけです。

天:大きめの作品では、その手法はどうでしょうか。例えば、この「 Disposal 」では、そこに空があるような仮定はできないでしょうか。

ク:そこは、部分的に削られ、残った部分にできた痕跡のパターンが気に入っています。空のようにも見えるでしょう。この手法は、即興が生み出す効果にかかっています。

天: 解釈を複雑にするために、期待を裏切ろうとしているのですか。

ク:第一に、空がそこにあること自体、私自身の期待を裏切っています。それは、私に新しい意味で、空間に対する自由な思考を与えれくれますし、違うスケールや物語を想像させてくれるでしょう。たとえば、スケールの変化を一旦受け入れれば、画面上のパターンが歩いている人の群れのように見えてきたりとか、です。

天:私には、あなたが常に新しい風景を創造しているように思われます。異なる源泉から取り入れた題材を予期しない形の中でひとつにまとめながら。ここで、風景には、あなたにとって特別に深い意味があるのかどうか聞かせてください。

ク:私は、ありのままの既知の風景に特別興味があるわけではありません。勿論風景というものは、子供のころの私にとっては重要でしたし、今も景色の中を歩くことに強い精神的な体験を求めます。ですが、風景を絵の題材にすることは、何か違って、絵画が奏でるものと伝統について考えさせられます。空間が、関連性のない相対するもの同士の関係を分析させることに、興味がわきます。時には、たとえそれが、通常の風景画には見られないものを含むことを意味するとしても、です。

天:それは、シンボルや動きを加えた演出といったところですか。

ク:はい。でも、記憶の中の思い出が必然的に登場し、風景によっては他の絵や写真または歴史的なイベントなどが関連して、比喩的にさえなってきます。

天:あなたの手法は、禅の庭園を思い起こさせます。あなたなら、きっと興味深くご覧になられるでしょうね。例えば、京都へ行くと岩の周囲に敷き詰められた砂利を、僧がレーキでかきならす姿が見られますが、砂利はちょうどあなたのグラファイトのように灰色がかり、それが象徴するものは海だったり、霧や宇宙空間といったもので、暗喩するところはさまざまです。

ク:それには、共通点がありますね。制作の初期過程のアイデアを練りだそうとする段階では、中間の灰色から遠ざかることが肝心です。他の色と違って、灰色は連想を引き起こしません。そこを水にするか、空または空間か地面かなど後になるまで決めなくてよいのです。そこは、流れにまかせておけます。

天:あなたの作品に一番引かれた点は、一目見た瞬間デジャヴのようなイメージが沸き上がってきたことです。どこかなつかしいような。ところが、じっと作品を見続けると、だんだん奇妙に見えてくる。そして、途中から、何か今までに一度も見たことがないようなものにかわってくるのです。

ク:制作過程は、全くその逆ですね。私は、それが一体何になるのか、何が起こるのかわからないまま作業に入っていきます。時には、かなり漠然としたアイデアだけあったりしますが、皆無の状態から始めることもあります。表面でイメージを動かしながら操っていきますが、うまく全体の関連性が見えるわけではありません。その関係が見え始めてきた時、その風景画らしきものは、語りはじめ、どこかなつかしい感じがしたり、確かな感触が得られるかどうかがわかってくるわけです。ちょうど、あなかの感じ方と逆方向ですが、そうおっしゃっていただけてうれしいです。

天:グラファイトの特質が幾分写真のように現実性を帯びているからでしょうか。

ク:白黒を使うことで写真がもたらす解釈は、同時に、私のアートにも影響しました。なめらかな紙と媒体のコンピネーションから生まれる粒子状の模様は、プリント写真にも共通して見られますね。

天:それに、あなたが詳細を見る側に与えないためとも言えませんか。

ク:モノクロが写真的な回答を誘因するからだと思います。写真の歴史から見ても、まず白黒が基盤でそれがより強く反響しているでしょう。イメージによっては、故意に絵画と写真のもつ特質を結合させるようにしています。

天:時には、写真の方法を直接取り入れているのですか。

ク:少なくとも何かを通して見るという点では。それが窓、スクリーンまたは、レンズであっても。

天 :リフレックスも。

ク:はい。ほとんど何もその風景の中に見えないとしても、浮かび上がってくるものは、何かを見ているのだけれどレンズはその見ている目を写し、それを自分が見ている、といった状態で、制作が進むにつれてそう意識しました。

天:フレームの中に収めると、風景が構造をもってくる。けれど、その風景を見ている人は、風景の中にはいない。風景から分離される、ということですね。

ク:それは、「これが、心象風景表像である」と言っている以上のものではありませんが、フレームの中で風景がどうアプローチされるか、崇拝や理想の対象ととするか冒涜されるかのヒントを与えることはできます。

天:風景のいくつかは、廃虚のようですね。

ク:風景が違ったとらえ方をされることも期待しています。例えば、都会の隅や工業地帯、そのさびれた跡地といった対象にわたることを。

天:風景画の確立は、比較的西側では新しいですよね。 17 世紀に入るまで独立したジャンルとしてとらえられてはいませんでした。

ク:ルネッサンス絵画では、それは作品中の隠された意味として使われていました。しかしながら、宗教が北ヨーロッパにおいてモチーフの対象外になった頃から、風景画はだんだんとその地位を確立していきました。自然や我々自身との関係を考える表現手段として認められていったからです。

天:つまり、風景を描くということは、あなたを、西洋画の根本である宗教性から解き放しているというわけですか。

ク:もしかしたらそうかもしれません。ですが、心理的な側面を捨てることなしに、です。英国の画家、 Samuel Palmer や William Blake に私は学生時代に強い影響を受けました。神性が吹き込まれた風景というものは、絵を考える時インスピレーションをくれる場所でした。

天:日本の伝統と通じるものがありますね。

ク:日本の伝統は、常に自然とより深く調和するように思われます。

天:風景や自然を対象にすることが、すたれてくるという不安はありませんか。

ク:いいえ、全くありません。意図するものの表現の場として、私は、風景がその時々に適当であり続けると思っています。ですが、同時に、例えば量子物理学や遺伝学、微生物学などの研究を通して、自然を解釈する手段もかなり進んできて、いまは主流とまで言えるでしょう。

天:消費者保護の広がり、エコロジーとも言うべきでしょうか、それがあなたのテーマの一部ですか。

ク:「自然」が一般に受け入れられている意味でいえば、そうです。自然は、開発という名の下に汚され、エコロジーの思想はかなり重要になっています。破壊のイメージもまた私がテーマとするところです。いずれにしても、現在私が好奇心をそそられるのは、このイメージが日本の方々の目にどのように映るかということです。禅画と比較されるでしょうか。

天:あなたの作品は、それとは随分違いますが可能性はあると思います。日本文化の中では、禅画自体は短い歴史を持つかもしれませんが、新鮮さを失わない禅画の影響を受けたものは多々あるでしょう。あなたは、そうとらえられることについては、どうお感じですか。

ク:日本や中国の水墨画の研究は、グラファイトの試行錯誤に反映されました。最初は、超現実主義の即興的なテクニックに関連していました。ところが、作品に手を加えていくうちに、私は、個々のマークにより関心を持ち、最終的な位置を決める前に何度も試してみたものです。それ以来、禅画をより深く研究し始めました。ご存じの、スギモ&##12488;ヒロシやカワナベハルナの写真作品にも同様の軌跡が見られますが、彼らも禅画について何か言及していますか。

天:それは、どうでしょうか。

ク:私には、彼らの作品は、禅画の影響が濃く感じられるのです。

天:同感です。あなたの作品もそうですが、過剰な情報を一切削ぎ落としているというか。この作品「 Passing place 」では、表現されているものはほんのわずかですが、それだけで必要な要素は十分といった感じです。ある種、とても書的です。

ク:それは、景色の向こうの木を表現しています。

天:そして、この風景からの抜粋のような部分は、生け花にも通じるようです。相互関係がありますね。

ク:生け花における時間の認識はどうでしょう。

天:花が切り取られた時、その瞬間に精神が注がれます。生花を根元から摘み取った段階、そこを大事にするわけで、そのあとの時間でもありません。

ク:お伺いしようと思っていたのですが、茶道では、客は最後にさようならと言うのでしょうか。

天:いいえ、静かに立ち去ります 。